日本エネルギー会議

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国民に問われなかった選択(2)

 私は1990年から数年間が日本の原発の最も勢いがあった時期と考えている。この間、ABWR(日本が改良した沸騰水型)が柏崎刈羽に完成。全国の原発の設備稼働率もなんとか80パーセントに届いている。しかし、皮肉にも問題はその頃から次々と出てきた。
 1995年もんじゅのナトリウム漏えい事故、1997年旧動燃東海事業所で爆発事故、関西電力などが新潟県巻町の立地を断念、1998年仏の高速増殖炉スーパーフェニックスが廃炉決定、1999年JCO臨界事故で2名が犠牲に、英国核燃料会社(BNFL)による関西電力向けMOX燃料に検査データねつ造発覚、2002年原発トラブル隠しが発覚し東電首脳陣が引責辞任、各電力にも波及。
 2007年新潟県中越沖地震発生、柏崎刈羽原発で火災、2010年もんじゅ原子炉容器内に炉内中継装置が落下し長期停止に。六ヶ所村の再処理施設竣工時期の再三再四の延期、そして2011年の東日本大震災の大津波により福島第一原発で最悪事故が発生。
 その後全原発が停止。スイス、ドイツ、イタリアで脱原発が政治決定。原子力規制委員会設置、新規制基準制定などの規制強化。相次ぐ初期原発の廃炉決定。もんじゅ廃炉決定と続いた。
 振り返ってみると、もんじゅのナトリウム漏えい事故以降、国と原子力産業界にとって痛恨の出来事が続いている。これらの出来事は玉突きのように悪影響を広げてしまう。私が日本原電の敦賀事務所に勤務していた1995年の秋、敦賀3、4号機は準備工事が終わり明日にでも本格着工出来る状況であった。
 今まさに「天岩戸」が開いて県知事や市長が洞から外に出て来て、地元の着工合意の御札を日本原電に手渡す寸前で、もんじゅがナトリウム漏えいを起こしてしまった。再び岩戸はぴたっと閉まってしまい、その後もいろいろあって22年経った現在も閉まったままだ。2000年以降に運転開始した原発は6基に過ぎず、廃炉基数を大きく下回っている。
 福島第一原発の事故前には経済産業省のリードで原子力ルネッサンス計画がつくられ、原子力産業界は久しぶりに国内のリプレースや原発輸出の期待に沸いたが、福島第一原発の事故が起きて吹き飛んでしまった。
 2000年~2010年の原発稼働率は70パーセント、60パーセントと低迷。2011年以降は1割にも満たない。これでは基幹電源としての、また温暖化対策としての役割を果たせたとは到底言えない。この間の電力会社の逸失利益は大きなもので、電力会社も合理化努力はしたものの、損失は最終消費者が負担した。反対派はじりじりと国民の間に浸透しはじめ、福島第一原発の事故以降はアンケート調査などで原発支持を逆転し、かなりの定着したものとなってしまった。
 これで国や電力会社が国民に原発の選択を問えるような状況ではなくなった。原発という電源を守るためには、原発に理解のある政権与党の力で再稼働あるいは新増設に踏み込む以外に手がない。電力会社など原子力産業界や大多数の立地自治体首長は今度の選挙結果に胸をなでおろしたに違いない。
 電力会社は政府の原発推進を頼みにしてはいるものの、再稼働のための改良工事にかかる多額の出費や新増設炉の価格高騰には困惑している。かといってまだ使える原発を廃炉してしまうとバランスシートがもたないし、新増設しなければ原発産業の衰退が決定的になるので、国からなんらかの経済的支援を引き出さないといけないと考えている。どの電力会社も「進むも地獄、引くも地獄」(日本原電の最大株主の東電幹部が日本原電の現状についてこのように表現したと報道されている)なのだ。                               
(つづく)

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