日本エネルギー会議

  • 設立趣旨
  • お問合せ

戦争調査会と原発事故原因の探求(4)

 福島第一原発の事故に関する調査会の第三部会は我が国への原発導入時から福島第一原発の事故に至る間、学術面においていかにして福島第一原発の事故の下地がつくりあげられたかを調査する。その内容は概略次のようなものとなろう。

・学会から推薦され初の原子力委員になった湯川博士は、原子力開発が基礎研究を抜かして性急に行われることに反発し委員を辞任した。原発を中心とした性急な原子力開発の広がりに対して、安全性などの基礎研究はたち遅れ、その後も経済性を重視した原子力利用の考え方が優勢で、学会も原子力推進体制に次第に組み込まれていった。

・原子力工学科、原子核工学科は東京大学をはじめとする多くの国立大学に設けられ、そこから省庁、研究機関、電力会社、原子炉メーカーに幹部候補の人材を供給し続けた。また、一部の私立大学からも原子力専攻の人材が輩出されたが、最も多くの人材を採用する原発関連の業界では機械、電気、電子の学科の大学卒を求めており、原子物理学、原子力工学の専門性を持つ大学卒の需要は限定的で、原子力理論を学んでも金融など異分野に就職する者もいた。

・教授との師弟関係、研究室の同期、先輩、後輩とのつながりは社会人になっても就職斡旋、研究委託、委員会委員への就任、情報交換、政策立案などの場面で続いた。通産省、科学技術庁の官僚、国立の研究所の幹部、県の原子力対応の職員、委員会の委員などとの同窓、同じ研究室に在籍したとの経歴は電力会社や原子炉メーカーの原子力部門の職員にとって業務をするうえで大切な関係であり、あたかも大蔵省の官僚と大手銀行の担当者のようであった。
 これは情報共有化、政策の事前調整、契約交渉、許認可審査などにはプラスであったが、本来監視側と被監視側、あるいは互いに牽制すべき緊張関係を緩めてしまうものでもあった。

・昭和30年代から40年代にかけて、未来のエネルギーの開発という希望のもとに原子力は人気のある学科であり、理系でもトップレベルの学生が集まった。しかし、その後は自動車産業、家電、IT、航空宇宙などの花形産業に学生の関心が向うとともに、原子力開発が停滞しはじめたため、原子力を目指す学生の質と量は低下せざるを得なかった。
 義務教育や高校では、学習内容に原子力はほとんど含まれず、大事故のことだけが教えられた。 また、メディアが伝える内容も事故や原子力に批判的なものが多く、大学で原子力を研究しようとする学生は減少してしまった。また、母親が原子力に批判的な考えであることも影響した。

・原発の開発のペースが落ち、就職先が狭まるとともに原子力を専攻しようとする学生が減り、不祥事や事故でさらに人気がなくなると大学から原子力工学科の名前が消え、量子工学などへの学科名の変更が相次いだ。授業の内容も幅の広いものになり、専門性が失われていった。また、かつてのような理系トップレベルの学生ばかりが集まるところでもなくなった。

・大学には研究炉が少なく、建て替えも進まず、廃炉に追い込まれるものもあり、実験研究は制限があった。そのため国内の研究施設の原子炉だけでなく、外国の原子炉を利用することさえ行われた。学生はわずかな原子炉運転体験しか出来なかった。

・大学間の交流、情報共有、共同活動はあまり見られなかった。原子力研究や開発が多くの分野の専門性を結集して行われていたが、学会や研究者はそれぞれ専門化しすぎて、他の専門分野について関心を寄せることは少なかった。学会間の連携も活発とは言えなかった。

・国の研究機関は日本原子力研究所、動力炉核燃料開発事業団(現在の日本原子力研究開発機構)、放射線医学研究所、原子力安全基盤機構(旧原子力安全技術センター、旧原子力発電技術機構、旧原子力工学試験センター)、東京工業大学先導原子力研究所のような国立大学の研究所などであり、研究資金は国の予算であるため、国の政策に沿った研究に重点があった。原子力安全研究のうち自然災害については耐震性の研究に重点がおかれた。

・電力中央研究所、原子炉メーカーの研究所など民間の研究機関があったが、研究資金や人材は電力会社、原子炉メーカーなどからのものであり、原子力の安全性、経済性を上げるための研究が中心となる。ここにおいても耐震性の研究が盛んに行われたが、津波の影響については扱われなかった。

・軽水炉の安全研究は、一般公衆への放射線災害の防止を目的として、軽水炉の開発の一環として昭和25年代から始まったが、アメリカが開発した原発をターンキーで導入したため、アメリカの行った安全研究の成果をそのまま受け入れていた。(最初にイギリスからガス炉を輸入した東海原発は、耐震性が大幅に強化された)しかし、その後アメリカで緊急冷却設備の実験において、その有効性に疑念が生じるような実験結果が出たことによって、日本原子力研究所で緊急冷却設備の有効性確認や反応度事故時の安全基準の実験研究を行うなど、過酷事故関連の研究を始めたが、福島第一原発の事故のような長時間の全電源喪失、水源喪失、ベント不可能のような事態を考えてのものではなかった。

・昭和34年に設立された日本原子力学会には、原子力・放射線・再処理・環境科学などの研究者および学者、事業者・プラント関連技術者、国・地方自治体職員など多彩な業種・分野にいる7千人の個人会員と原子力研究機関、電力会社、プラントメーカー、建設会社など各種団体からなる約230組織の協賛会員がいる。

・日本原子力学会以外にも原子力の主な分野に学会がある。保健物理学会、保全学会、土木学会、機械学会などである。広い分野の専門家を1つにまとめる必要性を日本原子力学会の関係者は強く認識していたが、福島第一原発の事故前にその役割を十分に果たせたとは言えない。

・原子力学会やその他の学会のメンバーの多くが、原子力産業の現役やOBであり、学者、研究者としての立場と産業界の立場と二重国籍であるという問題があった。現状について批判的な立場での意見を述べることは、所属元のことを考えると出来ない。
 彼らは現状を否定するような動きについては所属元に報告するとともに、むしろ抑制する働きがあった。産業総合研究所が出した津波の警告についても、学会は反応しなかった。反対派は原発推進の立場をとる学者を政府や大企業の御用学者と呼んでいた。反対派が押す学者との議論はほとんど行われず、どこまでもすれ違いのままであった。

・日本学術会議は、昭和24年に行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立された。その役割は、主に「政府に対する政策提言、国際的な活動、科学者間ネットワークの構築、科学の役割についての世論啓発」で、人文・社会科学、生命科学、理学・工学の全分野の約80万人の科学者を代表していた。
 原子力開発については、開発当初、原子力平和利用の三原則を打ち出したことで知られている。日本学術会議はその後も原子力に関していくつかの提言をしているが、それらは概ね重大事故発生や問題が行き詰まった後のものであり、未然防止にはならなかったうらみがある。                                
(つづく)

  • データベース室
  • エネルギーとは?
  • 世界と日本のエネルギー
  • 原子力の論点
  • 放射線と健康
Facebook Twitter