日本エネルギー会議

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戦争調査会と原発事故原因の探求(5)

 福島第一原発の事故に関する調査会の第四部会は、我が国への原発導入時から福島第一原発の事故に至る間、産業界においていかにして福島第一原発の事故の下地がつくりあげられたかを調査する。その内容は概略次のようなものとなろう。

・電力会社と原子炉メーカーを中心に、政治家、官僚、研究機関、学者、素材メーカー、金融機関、商社、メディア、自治体、労働組合、漁協、各種団体は、「原子力村」と呼ばれるまれにみる巨大な共同体を作り上げた。掲げた目的は「準国産エネルギー確保の実現と人類の未来のための貢献」であった。

・共同体は電気事業連合会原子力部が作戦本部となって、強力な政治力を行使したが、その力の源泉は国策民営と電力会社に与えられた地域独占、総括原価方式による安定的で強大な経済基盤であった。原子炉メーカーも政策的に寡占状態が維持され、各電力会社と固い結びつきを持つとともに、幾重もの多層構造の系列を構築した。

・共同体は政治への働きかけ、行政への働きかけ、メディアによる国民への働きかけなどを通じて、目的達成とともに「共同体構成員の既得権と体制や基本計画の維持」に努めた。その結果、「重要課題の先送り」「不都合な問題から国民の目を逸らさせる」「計画破綻の回避」「ルールや解釈の変更」「異論の押さえ込み」「経済性の優先」「情報管理や隠蔽」「障害となるものの排除」が行われ、その成功体験から自らは謙虚さを失い、安全対策の先送りも含め国の政策変更など、「何でも出来る。不可能なことはない」と思い込むようになった。周囲が原子力産業を特別視することに対して、自らも特別な存在と主張するようになった。

・共同体の力は内部統制にも使われた。自由な発想を許さず官僚的であり、箴言する者や異端者を排除するようになり、もともとあった自由な雰囲気も次第に薄れ自浄機能を失って行った。内部チェック機能は骨抜きにされ、人事も含め部門の縦割りが強いまま、体制維持がなにより優先された。近年、日本原子力産業会議(原産)が日本原子力産業協会に改組され、従来の「国民的立場から原子力を考える」ことを放棄し、普通の業界団体になったことは象徴的な出来事であった。

・電力会社や原子炉メーカーにおいて、原子力部門は他部門との人事交流も少なく、社内で特別な扱いを受けていた。電力会社と原子炉メーカーの原子力部門は、社内の各部門との繋がりよりも強い絆で、あたかも一つの組織のごとく結ばれていた。

・改革は内部に波風を立てないよう慎重に行われ、護送船団方式により、突出や抜けがけは許さなかった。経営の継続性、発言の一貫性を維持するため、いままでどう言っていたか、どうやっていたかが判断の決め手になった。考え方や方針、あるいは計画を変更する際に内部の混乱を防止するため急激な変更や大幅な変更は避ける必要があったためである。これとは反対に、外部に対しては経済力、政治力を使って強引なやり方も敢えて行われた。

・組織を守り利権を確保するため、何十年も前に作られた路線に固執した。特に核燃料サイクル路線に拘泥し、再処理や高速増殖炉が当面出来ないと解ると、残された手段として敢えて経済性に疑問のある軽水炉によるプルサーマルの実施を目指した。

・アメリカでは競争環境が業界の自主的安全性向上や稼働率向上の源泉であったが、日本の業界は批判に対して国の規制を盾に取ることを優先して、規制当局の検査に依存する道を選択した。

・美浜原発の非常用冷却装置作動、3号機二次系配管破裂、浜岡原発での臨界事故や水素爆発、外国での重大事象等などさまざまな予兆があったが、過酷事故につなげての検討は、従来の対外説明も勘案してタブーだった。規制当局は過酷事故対策を重大視せず、規制ではなく自主運用としていた。

・関係者は「もう外国に学ぶことはない」という不遜な考えを続けるとともに、我が国と比較をされると対応に困るため敢えて海外情報を軽視し、比較を避けていた。

・わずかな放射線漏れなどをメディアが大きく報道するようになると、電力会社は情報開示に神経質になり内に籠るようになった。2007年柏崎刈羽原発が地震で被災し、各社は耐震強化に乗り出したが、さらに脅威の対象を他にも拡大することは地元説明や避難計画が収拾つかなくなるため避けていた。

・軽水炉導入当初は、地震発生メカニズムの知見もなく、自前の評価能力は育っておらず、設計変更には巨額の費用と時間を要するため、日本の自然条件に合わない元設計のままの原発の建設が行われ「設計と立地の誤り」が生じた。後輩は先達のやったことを批判することが出来ず、目先のトラブル対応に追われ「設計と立地の誤り」を直す機会と決断を持てず、誤りを長年放置することになった。

・電力会社は数十年来、新型の建設と稼働率を国際的水準に引き上げることに的を絞ったため、稼働率低下と経済性低下につながりかねない「設計と立地の誤り」の修正をすることなく、廃炉までそのまま運転すると決め込んでいた。

・電力会社では、運転員の世代交代が進み、技術継承問題や経験不足が生じた。建設やメンテナンスでは合理化を理由にアウトソーシングが進むことで、電力会社の技術の空洞化が生じ、現場での実戦的な対応能力が低下したが、これらをカバーする有効な手立ては打たれなかった。

・電力会社は国策民営の下、長年にわたり監督官庁に対して原子力推進という共通の立場から、反対派の起こした裁判対応支援などで政治力、技術力、動員力、情報力など提供することを通じて次第に彼らを取り込むことに成功した。また、役員OBが委員会委員になり、事務局に職員を出向派遣し影響力を行使した。

・反対派が国を相手取って原発訴訟を起す戦略に出ると、国と電力会社は古い原発でも十分安全という説明をせざるを得なくなり、根本的な安全議論はタブーとなった。地元対策を考えると、いまさら追加対策が必要、大規模な訓練は必要とは言い出しにくく、大事故の起きる確率は極めて低いことを強調するしかなかった。電力会社は、良いことでもやれば批判をされる「安全神話の罠」に自らはまってしまっていた。

・電力会社は日本が大きな地震や風水害など自然災害が多い国であるという認識はしていた。また、近年テロの脅威も高まっていることも認識していた。だが、それに備えるにはどの程度の追加安全対策が必要なのか見積もれなかった。実際に緊急事態になった場合、どの程度の対応が出来るのかについては不安を持っていた。また、住民の避難についてもその想定をどこまで考えなくてはならないか悩ましく、それに備えるには極めて大きな困難が伴うことも分かっていたので、結局「過酷事故は起きない」と考えることで振り出しに戻ってしまい、対策の多様化、訓練の本格化もせず適当な範囲で収まるようにしていた。

・共同体はあまりにも巨大化したため、電力会社の経営トップは、体制維持と前任者の方針を受け継ぐには誰がふさわしいかで選ばれ、根底から改革しようとする者は選ばれなかった。彼らは期待に応えて、既存の方針や計画、いままでのいきがかりに拘り、根本問題の解決を先送りして、対症療法と経済力をバックにした政治力で乗り切ろうとした。

・1979年スリーマイル島の事故で、軽水炉で現実に過酷事故が発生する可能性があることが判明。アメリカでは、多様化した非常用発電機設置を義務付けたが、日本では肝心の緊急時の対応、対策が進まず、「メルトダウンしてもあの程度の外部影響」と、逆に問題を矮小化した。7年後、チェルノブイリ事故が発生したが、炉型の違い、社会体制の違いを強調した広報活動を展開し、過酷事故対策で欧米に立ち遅れはじめた。  
 (つづく)

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