日本エネルギー会議

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戦争調査会と原発事故原因の探求(6)

 福島第一原発の事故に関する調査会の第五部会は、我が国への原発導入時から福島第一原発の事故に至る間、我が国の社会と経済において、いかにして福島第一原発の事故の下地がつくりあげられたかを調査する。その内容は概略次のようなものとなろう。

・原発は導入時から紆余曲折を経て2000年代には発電量で3割を占める電源に成長を遂げた。いくつかの事故トラブルあるいは不祥事があったものの、新規立地も少なくなり、国民の原発に対する不安感は、福島第一原発の事故まではさほどなかった。

・福島第一原発の事故前、いずれの世論調査においても原発に対する明確な否定的意見の比率は20~30パーセントで推移し、チェルノブイリ事故やJCO事故後も、電力会社の巧みな説明のためか、大幅な増大はみられなかった。

・長年にわたる原発推進派と反対派の二項対立の論争は、これまで何ら原発の安全向上に寄与しなかった。電力会社が従来の主張にこだわることで、むしろ安全強化の邪魔になった。 

・福島第一原発の事故以前、国政選挙、地方選挙とも「原発は票にならない」として、政策論争や選挙公約の対象ではなかった。地元自治体の首長や保守系の議員の多くは、電力会社やその影響下の企業、団体の支持を受けており、事故やトラブルさえなければ原発に対して理解ある立場をとっていた。

・立地地域においては、建設以来、多くの住民が原発で働いたこと、原発の定期検査、電源三法交付金(原発は火力に比べ多くの交付金)で地元の経済や自治体の財政を潤し続けたことなどから、地域における原発依存がずっと続いていた。

・いままで大事故のなかった安心感、身内が働いていること、電力会社が繰り返し安全性を訴えたことなどから、地元住民はこれからも大事故はないだろうと考えていた。

・電源三法成立当時、田中内閣は原発のリスクを認め、原発を迷惑施設と認定していたが、その後の内閣ではメリットのみが語られ、リスクへの言及は控えられた。政府における規制当局の独立もなされなかった。

・福島県では知事の東京電力に対する不信感から対立が起き、知事が逮捕されて交代した後、事故直前には双葉郡の首長が福島第一原発でプルサーマルを受け入れることを県に表明することで結束しかけていた。その時、津波の話など出てきたら、結束は吹き飛んだだろう。

・石油価格は2000年以降急騰し、2016年まで以前の2~4倍の高い水準であった。また、石油の中東依存度も同じ期間、平均85パーセントと高い水準であり、国際収支、エネルギー安全保障、石油価格の抑制、電気料金の安定化のために、原発の存在価値は高かった。

・シェールガス開発が進む以前、火力発電所では石油石炭から天然ガスへのシフトが進んだが、天然ガスの価格は石油にリンクし、輸入先も中東からが40パーセントであったため、原発の経済性、安定性は揺るがなかった。

・国内では、1970年代前半には石油による火力発電が大半を占めていたが、石油危機以降、価格が安く供給不安も少ない石炭や天然ガスによる火力発電に移行した。2000年以降、石炭と天然ガスによるものが火力発電の全発電量の80パーセント以上を占めている。発電コストは天然ガス火力、石炭火力、原発が同程度であった。地球温暖化問題が深刻化する中、国は原発を重要な温暖化対策手段と位置づけていた。

・福島第一原発の事故前に、自民党から民主党へ政権が移行したが、原発に関しては従来路線が引き継がれて脱原発政策は取られなかった。また、事故に対する備えの強化も含めて諸課題の解決は進まなかった。

・大規模なテロが発生した後、欧米ではテロ対策など原発の安全対策の強化が図られていたが、国内ではそれに追随しようとする動きは産官学、メディアでも鈍かった。むしろ、欧米や韓国に比べて稼働率が10~20ポイントも低いこと、プルトニウムや使用済み燃料が溜まり続けていることに焦点が当たっていた。

・日本は化石燃料に依存しすぎていたが、原発が一定の存在を示していたため、再生可能エネルギー開発が遅れていた。電力需要はピークを迎えた後、2008年から減少し始めた。

・国や電力会社は原発の新増設が計画どおりに進まず、核燃料サイクルやバックエンドの遅れもあり、次第に原発路線、核燃料サイクル路線の破綻回避がむずかしくなりつつあった。

・原発建設の勢いがなくなって、原発機器の製造設備、製造技術、若手人材の確保育成に影響が出始めていた。

・2000年代になり、アメリカを中心に長らく途絶えていた原発建設の計画が持ち上がり、原子力ルネッサンスと呼ばれるようになった。日本では国が2006年に国内の原発関連諸問題の総合的解決策として「原子力立国計画」を策定した。立国計画では、電源に占める原発比率のさらなる向上のための原発の新・増設、既設炉リプレースの実現、稼働率の向上、核燃料サイクル成立のため高速増殖炉の早期実用化、新規建設低迷期における技術、企業・人材の維持・強化に資する原発の輸出、放射性廃棄物対策の着実な推進などを目指した。

・1970年以降、原発近傍では2004年10月の新潟県中越地震と2007年7月の新潟県中越沖地震があったが、後者で柏崎刈羽原発が被災し、地震対策強化が行われた。この間も津波に襲われた原発はなかった。

・国の中央防災会議の提言により地震予知の方法論を改め、考古学、歴史学など様々な見地から研究するようになり、産総研の研究グループが東北地方は450~800年間隔で大津波に襲われるという報告を出したのは2010年が初めてであった。国も原発の津波対策として統一した見解や指示は出さなかった。電力会社の対応はバラバラであった。

・原発訴訟は伊方原発訴訟が1992年に最高裁判所で原告敗訴が確定した。それ以外に伊方2号、東海第二、柏崎刈羽、福島第二、もんじゅ、泊、志賀、浜岡、島根、玄海、上関、六ヶ所村核燃料サイクル、JCO臨界事故、大間と全国で起きている。 
(つづく)

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