日本エネルギー会議

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麻生発言と原発事故の再評価

 麻生財務大臣が福田前事務次官のセクハラ問題について「セクハラ罪という罪はない」と繰り返し発言し、批判を浴びた。「セクハラ罪という罪はない」に関して言えばその通りだが、麻生大臣は発言を受け取る側との共感性が完全に欠如していると指摘されている。
 麻生大臣は以前から問題をはぐらかしたり、ユーモアとほど遠い冗談で茶化したりして麻生節などと言われていた。私が現場にいた頃、地元の首長が余裕のあるところを見せたいのか、地方議会で面白おかしく答弁し笑いを取ろうとしていたものだが、今回はそれに留まらず世間は一種の居直り、威嚇と感じている。
 福島第一原発の事故から7年が経過し、事故原因のさらなる追求や事故そのものの評価をし直そうとする動きがある。何から何までとんでもないことが起きたとする今までの風潮に対して、黙っているのではなく間違いは指摘し、良かった点は認めるべきではないかというものだ。
 例えば、「今回の事故では、死者がなかったばかりか住民に対して病人もけが人もいなかった。まさに原子力発電の安全性が確認されたものだった。発電所は破壊されたが、人命に関しては完全に保護した。そのことは言い過ぎても言い過ぎることはない。避難のやり方が悪くて関連死の方がおられるというのは原子力の安全とは別次元の話」という具合だ。
 事故による直接の死者がなかったことは事実としてはその通りだが、これを聞いた避難者や福島県民からは反発こそ出るが、共感は得られないだろう。メディアもこの主張を取り上げて報道する場合は、批判的に扱うだろう。事故当時の東京電力の社長が、「福島の原発は、国の認可や検査をクリアしていた」と発言して住民などから猛反発されたことを思い出すが、これも間違った発言ではなかった。事実は事実として認めるべきだという考え方は正しいと思うが、残念ながら共感は得難いだろう。
 それはそれとして、もう一つ言っておかなければならないことがある。死者や病人がでなかったことを改めて確認するのはよいとしても、それが原発の実力と思うのは間違っている。あの事故で対応に当たった東京電力の社員や協力会社、消防などの作業者に大きな被害が出なかったことは、単なる幸運であった。水素爆発で複数の原子炉建屋の上部が破壊され、構造物が粉々になって降ってきたが、その直撃による死者や重傷者が出なかったことは奇跡的だ。これを不幸中の幸いと捉えずして、「死者はいなかった」と胸を張るのは、やめた方がよい。すくなくとも、「幸運にも」という言葉を前につけるべきだ。
 私は事故のことを聞かれる度に、「福島原発の事故ほど発電所側としてよい条件で起きた事故はない」と話しているが、これからは、水素爆発による人的被害がほとんどなかった幸運も挙げなくてはなるまい。また、対応に当たった作業者に対して、法定の被ばく線量の限度を臨時的に引き上げなくてはならなかったことも言い忘れてはならない。このことこそ言い過ぎても言い過ぎることはない。

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