日本エネルギー会議

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安全文化再考

 福島第一原発の事故は、日本における安全文化のあり方に疑問を投げかけた。電気事業連合会HPによれば、「安全文化(セイフティカルチャー)」という考え方は、チェルノブイリ原発事故の原因の調査と検討の結果をきっかけとして生まれた。
 1992年に安全諮問グループの報告書で、安全文化とは『原子力施設の安全性の問題が、すべてに優先するものとして、その重要性にふさわしい注意が払われること』が実現されている組織・個人における姿勢・特性(ありよう)を集約したものと定義づけた。つまり、「安全文化」とは、組織と個人が安全を最優先する風土や気風のことだとしている。しかし、日本においては関係者が、いまだに安全文化を本当の意味で理解していない疑いがある。その理由は「何故、安全がすべてに優先するか」という問に正しく答えられないからである。
 原子力の関係者は何を目的として原子力開発をしているのか。高次元の目的としては、人類の未来のため、人々の幸せのため、地球環境を護るためである。もっと現実的な目的としては事業の利益を得るため、個々人の生活の糧を得るためである。福島第一原発の事故後、原子力開発が滞ったことで、せっかく日本が手にした素晴らしい技術が活用されなくなっているのを嘆いている関係者も多いが、先ほどの問に正しく答えるためのヒントがそこにある。
 福島第一原発の事故のような大事故が起きれば、国民から原子力開発に疑問が投げかけられ、本来の目的である人類のための原子力の活用という目的を果たせなくなる。それでは困るはずだ。だからこそ、設計や運営にあたっては安全に気を使うべきなのだ。「安全がすべてに優先する」の「すべて」を誤解してはならない。安全が仕事の上にくるわけではないのだ。なんといっても仕事が一番上であり、それが達成出来なくなる障害としての不安全による事故と考えるべきである。安全でなければ存在が許されないとしても、安全が一番の目的ではないのだ。
 アメリカの原発の定期検査工事を視察して気づいたことがある。原発の管理者はあらゆるアメとムチを使って職員を叱咤激励し、1時間でも定期検査を早く終わらせて発電を再開することに必死である。日本の管理者も定期検査期間の短縮を願っているが、その意気込みが全然違う。
 そのような状況では事故が起きやすいのではと考えるが、そうではない。事故を起こせば定期検査期間の短縮どころではなくなり、その結果は保修課長が首になり、発電所長も左遷されかねない厳しさなのだ。事故防止には本当に真剣に取り組んでいる。彼等こそ「何故、安全がすべてに優先する」かを、正しく理解している。銀行は不正な行為で儲けても、それが発覚すれば元も子もなくす。儲けを確実なものにするには全力を挙げて社内で不正を防ぐべきなのだ。自動車メーカーも同じことだ。安全のための安全などやる必要はなく、単純に儲けのための安全でよいのだ。アメリカの原発はこれで徹底されている。
 日本の原子力では安全や安全文化は、「なによりも優先すべきこと」が仕事より優先というかたちで理解されているので、安全が現場で浮いている感じがする。高次元の目的を意識するならば「この人類が手にした貴重な原子力技術」を絶えさせないようにするためには、大事故はなんとしても避けなければと真剣に考えるべきである。その努力が足りなかったというならば、「原子力に対する想い」がそれほどではなかったということになる。福島第一原発の事故後、関係者がやるべきは原子力に対する自らの「想いや執着」をさらに強めることである。
 電気事業連合会は、「安全文化」は、国、事業者、作業者などさまざまなレベルで原子力に関わる人たちの具体的な積み重ねを通じて育成され、組織の風土として、また、携わる人の気風として定着し、さらに社会全体が安全に対する認識を高めることにつながっていくと期待される。としているが、風土や気風といったものは、いろいろやった組織や人々の姿を外から見て表現しているに過ぎないのではないだろうか。
 安全は仕事そのものなのに、「安全文化」などと言う言葉を使うようになってから、おかしなことになり、安全文化という空気が事故を未然に防いでくれるという幻想を抱かせた。リスクを犯そうとする勢力に対して安全文化で立ち向かうという対立の構図を作ってしまったのだ。そんな空気のようなものに頼らず、「原子力が人類にとって大切なものだと思うのなら、事故を起こさないように今よりもっと慎重になりなさい」「安全最優先でなく仕事の目的最優先を」と言ったほうが真っ当であるし、わかりやすい。

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