日本エネルギー会議

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日本の行動様式と考え方(5)

日本の行動様式や考え方にある欠陥。今回は「科学を理解しないまま技術を使うこと」だ。日本人が根本的に信じていることは「どうにもならない自然の力」と「精神力は物理的な力に勝てる」「人が発した言葉の力」である。これらを科学の力より上位に考えている。日本で科学が発達せず、西洋でしか発達しなかった原因とも考えられる。日本を含むアジアにも中南米にも古くから偉大な土木建築や天文学が存在した事実はあるが、これが科学として体系的に真理の探求、自然現象の解明には進まなかった。

鉄砲伝来に見るように、日本人はコピーを西洋人が驚くほど、早く巧みにやるが、その元になっている原理については深く追求はしない。江戸末期には平賀源内がエレキテルを紹介したが、それは見世物としてであった。写真、反射炉、大砲、鉄道、ガス灯、電灯など飛行機に至るまで素晴らしい物を作れるようになり、新たな発明もする。しかし、それは科学の本質を理解していることにはならない。

科学の発祥の地であるヨーロッパでは、科学は二つの意味で闘争であった。一つはキリスト教の聖書に書いてあることが真実ではないことを証明する闘い、もう一つは自然を征服して人間のために使うという闘いである。日本人とは科学に対する理解と信頼感が違うのだ。これが昨今の地球温暖化に対する危機感の差にも現れているように感じる。科学的にというのは論理的にということでもある。論理的に説明出来ないものは科学ではない。

日本人の判断は論理的か情緒的かと言えば、ほとんど情緒的だ。論理的に考えられないのではなく、情緒的が好きなのだ。論理的結論をいとも簡単に否定して情緒に身を任せる。歌舞伎や浄瑠璃のストーリーは多くがこれだ。戯作者は日本人が情緒を何よりも好むことをよく理解していた。それを芝居だけでなく現実の世界に持ち込むのだから始末が悪い。

先の大戦ではこの弱点が常に出た。兵站の軽視。食べなければ戦えない。伝染病で死んでしまう。戦車に竹槍で戦おうとする。戦えないといえば根性がないと叱られる。失敗と真剣に向き合わない。責任をはっきりさせないため本当の原因をとことん追求しない。皆が悪かったことにしてしまう。それで次々と失敗する。

精神力があれば乗り越えられると真面目に考える。東條英機首相は敗戦後に「日本人は自分が思ったほどに精神力が強くなかった」と語った。戦うためには石油の備蓄量が絶対的に不足していたが、南方を先に占領出来ればそこから石油を調達出来るという夢に任せて開戦を決定した。零戦の設計者は空中戦の性能をよくするために防御装備を疎かにし、パイロットの技量や精神力に期待した。設計者ですら「日本人は優秀だからなんとかなる、なんとかする」ということでリスクを無視してしまう。

戦艦大和の沖縄出撃の理由は、国民の血税を使ったから出撃せずに敗戦は出来ないというものだった。成功しないことはわかっていてもやってしまうのだ。何を求めていたのか、情緒的な目的であったことは明らかだ。
東京電力の首脳陣は福島第一原発に巨大津波はすぐには来ないと根拠なしに考え、事故が起きてしまってもなんとか対応出来るだろうとなんとなく思っていた。それは石油備蓄量不足でも幸運であればなんとかなるという判断と同じだ。地元に対して津波対策やテロ対策をやるとは言い出せない。何故ならそんなことを言って地元住民を不安がらせるのは気持ちが進まないからだ。

科学の本質を理解せずに情緒に流れる日本人は、好き嫌いを科学的なものにまで及ぼしてしまう。情緒的にだめだと思うと最初から理解しようとしない。いくら証拠が示されても気持ちを抑えられない。子供の食わず嫌いと変わらない。トリチウム水。被ばくによる健康障害、断層や火山の噴火。これらに絶対安全を求めてしまうのは科学的ではない考え方である。科学の本質を理解していればそのようなことは起きない。
ヨーロッパ人が自然を征服して人間のために使うという考え方をするのも、日本人とは大きく違う。自然を征服すると考えるのは自然の力を恐れる必要がないということ。これに対して日本人は自然を大いに恐れる。自然の力は限界がない。人間はとても自然には勝てないもの、ましてや征服出来ると考えるのが間違いで、自然からいくらひどい仕打ちをされても、自然の恩恵を頂くことでしか生きられないと考える。自然に対する畏敬の念を持ち続けることが必要で、それを忘れれば滅ぶと信じている。

科学は一定の条件を設定して物事を考えるが、日本人の自然観によれば、自然は無限に強大なのでどんなことをしても対抗することは出来ないと考える。確率では考えず、オールオアナッシングの考え方をするのもこのせいだ。「事故はかならず起きるので被害を減らすことを考える」という発想は事故前にはなかなか出てこない。
対策はどこまでやっても絶対はない。だからやってもしかたがないと短絡的に考えてしまう。「だましだまし」が嫌いで、出来る範囲で対策をやっておくという発想に至らない。福島第一原発の事故原因であるテロ対策の先送り、シナリオ通りの役に立たない事故訓練、どこまでも気にする放射線の影響など、科学的に物事を考えるための条件を設定することさえ拒否するために、当たり前の判断すら出来なくなっている。

言葉の力に弱いのも日本人だ。数字を使った論理的な説明より四文字熟語の方を好む。言葉によって納得し、割り切れないものも割り切ってしまう。割り切って早く楽になりたいのだ。世の中に割り切れる問題などないはずだ。いくらやっても理想と現実に差が出来て、それをまた解決していくということが永遠に続くのが本当だ。科学がまさにそうであって、科学的結論はどんどん乗り越えられていく運命にあり、アインシュタインの理論さえ否定されたり、修正をされたりしていく。だから科学は世界を征服したのであり、これからも輝き続けるのである。

言葉はそれを発した人のご威光も背負ってしまう。それで人を惑わす。科学はそのようなことはない。公式や法則は誰が発見したものかでその価値は変わらない。言葉は誰が言ったかによってパワーを持ったり持たなかったりする。言霊のある国の国民は言葉に仕事をさせてしまい、真実を覆い隠してしまうことがある。安全第一というスローガンを言うことで、いかにも事故防止がしっかり出来ている、管理がうまくいっているという印象を与えてしまう。それが言葉の怖さだ。戦争中も資源や実力が不足したから、盛んにスローガンを考えて不足を補おうとした。有名な戦時国策標語に「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」がある。問題をすり替えるのに言葉を使ったのだ。

科学は言葉ではどうにもならないもの。間違いや不足を言葉で補おうとすることは科学の否定でもある。言葉が情緒的なものと結びつくとさらにやっかいだ。科学の世界では絶対的なものなどないが、言葉にすると絶対的なものが成立してしまう。これを現実と混同してしまうのが怖い。精神的なもので論理的な結論を乗り越えようとするとき、言葉は大いに使われるのである。

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