日本エネルギー会議

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田舎で暮らした記憶

事故を起こした福島第一原発のある双葉郡の就業人口やGDPに占める第一次産業(農林水産)が1割程度だったとエッセイに書いたところ、1割とは思いのほか小さく、復興を考えるのに大変希望を持てたという感想を頂いた。残りの3割の第二次産業(製造、建設)や6割を占める第三次産業(サービス)が立ち直ることで復興の大半が達成出来ると思われたのだろう。確かに町内にあるカメラのプラスチック部品製造をしている工場は小さくともにその製品にかけては日本一で、山手にある工業団地は目立たないが、出荷額としては農産物の出荷額を大きく上回っている。

ほとんどの農家は兼業で、原発や工場や役場などに勤める傍ら、あるいは大工など職人仕事の傍らの農業で、専業農家は農業従事者のせいぜい2割程度だ。機械化が進み、田植えと収穫の時は農業機械を入れてそれぞれ一日で済んでしまう。その間、除草剤、害虫駆除剤の散布や水の調整見回り程度でよいので、それほど広い田でなければ、兼業でも米作りは十分にやっていけた。そのほか、高齢者を中心に畑で野菜を作り、出来たものは市場や直売場に出され小遣い稼ぎになっていた。町営住宅の小さな庭も、残らず家庭菜園にし、空いているのは減反政策で耕作していない田だけだ。

農業はGDPでは1割に過ぎないが、地方の郡部で暮らす人たちにとって、産業構造が変わっても、自家消費分のコメや野菜は買わずに済ませることは当然のことで、先祖から引き継いだ田畑や山林を管理し景観を維持しつづけることは、祭りや伝統を守ることと同義語であった。製造業や建設業、あるいはサービス業で収入を得ていようと、家の周囲や集落内の自然に手をかけずに放置しておくことはなかった。

私は十年前に富岡町の小良ケ浜地区に家を建てて地域に入り込んだが、都会では廃れてしまった地区の共同行事や共同作業や集会が毎月必ず行われ、それに参加することは地域に住むための条件となっていた。入居と同時に草刈機と一輪車を購入したのは自分の庭のためだけではなかった。

家の前にある道路は県道であり、本来は県が発注した業者が草刈やゴミの収拾、水路の清掃をすることになるが、地区では区民が自らの手で作業をしていた。町道はもちろん、県道は常に綺麗な状態で保たれて、原発関係の車両が往来する際に、窓から投げ捨てる空き缶や空き瓶がいつも問題になっていた。

所有者が不在の空き地に雑草が生い茂れば、地域住民が道路の清掃の時に刈り取っていた。県の予算は町を通じて行政区の会計の収入に組み入れられ、作業に参加する人たちのお茶代となった。歩いていて人に合えば会話が始まった。軽トラを道端に停めて話込んでいる人もよく見かけた。

田植えのために水を張った田、青々と伸びた稲、収穫を待つ一面の黄金色の稲穂、刈り取った跡の株が作り出す幾何学模様。カエルや昆虫、時折見えるキジや青サギなどの姿。遠くにあぶくま高地を望む四季折々の風景はかけがえのないものであり、それらは、人の心を満たす力を持っていた。近くの小さな漁港にもすぐに行くことも出来た。海が直接見えない場所でも、浜風や海から押し寄せる霧が海の存在を感じさせた。

原発事故で、こうした環境から避難した人たちは、仮設住宅に入るとすぐさま土地を借りて小さな畑を作ろうとしたし、賠償を得て土地や家を探す際に、「最低100坪」と希望した。移住先は特に双葉郡の南にあるいわき市が人気だ。3年前、双葉郡に住んでいた人たちは、都会で暮らそうとか、海のないところで暮らしたいとは決して思っていなかった。もしも、そう思っていたのなら、とっくに移住していた。

避難区域が解除されて戻った住民は、生活インフラの復旧に加え、いち早く元の風景が戻ることを願うはずだ。帰還を諦めて都市部に新たに家を求めた人たちは、昭和生まれが昭和の時代を懐かしむように、双葉郡で暮らした時代を懐かしむほかない。

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