日本エネルギー会議

  • 設立趣旨
  • お問合せ

極論に走りがちな人たち(その二)

極論に走りがちな人たち(その一)から続く。

以前、全日本高校生クイズ選手権大会というテレビ番組があった。二択問題があり、YESとNOのサークルが床に描かれていて、問題読み上げられると、自分が正しいと思う答えの書いてあるサークルに入らなければならない。時間がくると今いるサークルから出ることは出来なくなる。多勢集まったサークルにいる高校生は安心しているが、少ないサークルにいた高校生は不安に耐えられず多勢のサークルに移動することもある。視聴者はそれを見て笑う。正解が発表されるとどちらかにいる高校生は退場となる。残った高校生だけで再びクイズが続けられるという番組だった。

福島第一原発の事故後の放射線被ばくに対する人々の考え方も、高校生クイズ選手権のようになっている。人々にとって、放射線の現状や影響を知ることも関心事であるが、それを知っても安心はできない。どこかの集団に属することの方が安心の種になる。大きな集団ができた場合、反対の人や中間的な人は居づらい。集団から飛び出してしまうか、集団の中で息を潜めて暮らすことになる。集団になれば気が大きくなる。お題目も毎日唱えていれば、これこそ信じるに足りるものだと思うようになる。集団に所属する者の最大の関心事は、集団を維持発展させることになる。個人主義の典型であるインターネットの世界でさえもそのようなことが起きている。そのような場合、集団の主張はぼんやりしたものではダメで、スッキリ爽快なもの、極論でなくてはならない。

こうした考えの集団は軍国主義国家やオウム真理教のように、時として暴走を始める。すべてのものには長所と短所があるという原則を無視する。科学に対する精神の優位を説き、事実から目をそらす。現実も色眼鏡を掛けて見てしまう。針小棒大な表現をする一方、一切のリスク対策の有効性を認めない。本人たちはしごく真面目に、迷っている中間層を救うためという理由で多少嘘の混じった宣伝もいとわないカタルシスに陥る。

リスクについては恩恵を大きく見せることでカバーしてしまう。人々の不満や鬱積を解消したい気持ちを最大限に利用する。権威に弱い人々のために、専門ではない人まで専門家として担ぎ出す。有名作家や芸能人を広告塔を奪い合う。かつては外国人の言うことに弱い日本人だったが、最近では、変な自信を持ち始め諸外国が優れている点も認めようとはしない風潮も出てきた。

批判に対しては、イデオロギーが背景にある、あるいは強権による弾圧だと叫び、主張のすれ違いで終わらせる、同じ土俵に乗らず、どこまでも抵抗できる空中戦へと持ち込む戦略を取る。

こうした集団のお先棒を担ぐ人の存在も問題であるが、もっと問題なのは、身勝手で無責任な主張で多くの人たちを巻き込むことを許す「自由に対する誤った思い込み」が日本社会に蔓延していることだ。西洋発の自由もその成立には多くの血が流れている。自由は一種の不自由であり、責任と過酷な試練が待っているものだという認識が欠かせないものだが、日本人はそこのところがまだ甘い。だから根拠に乏しい事が散りばめられた極論が大手を振って出てくる。

小泉元総理は「日本人は、歌舞伎は好きだが原子力は嫌いだ」と言ったが、そもそも歌舞伎と原子力を並べて論ずること自体がおかしい。そんなことを言う外国の政治家はいない。

日本人は歌舞伎や原子力など、あらゆることを気持ちや美意識で考える癖がある。左脳で考えなくてはならないテーマも右脳で考えようとする。そこは実態から遊離した形式美に溢れ、判定勝ちや判定負けはなく白黒決着させる世界である。しつこく粘るより淡白さが優先する。一事が万事と決め付け、めんどうなことは言わず、ディテールは大胆に切り落とす。負けた横綱は引退しかなく、武士はいつでも腹を切る覚悟が求められる。総括や断罪を受ける前に対象が舞台から自分で消え去ることになっている。

島国の自然風土と歴史に培われたこうした生き方の美学を、あらゆるものを考えるときの基準にしているのが日本社会である。そうなれば自ずから議論が両極端に走りがちになる。小泉元総理がそのことを分かった上で、あえて歌舞伎と原子力を並べて論じたのであれば、彼は単なる変人ではなかったということになる。

  • データベース室
  • エネルギーとは?
  • 世界と日本のエネルギー
  • 原子力の論点
  • 放射線と健康
Facebook Twitter