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福島第一原発の汚染処理水の海洋放出に関する合意形成について 齊藤誠(一橋大学大学院経済学研究科 教授) 2017.10.2

 本年7月12日,川村隆東京電力会長は,記者たちの前で福島第一原発の地上タンクに蓄えられているトリチウムを含んだ汚染処理水(放射性物質の除去処理を済ませた水)の海洋放出について「判断はもうしている」と発言した。
 共同通信はすぐさま汚染処理水の海洋放出が東電内で既定路線となっていると報じた。漁業関係者をはじめとした地元の人々は,川村会長発言に強く反発した。川村会長は同月19日に全国漁業協同組合連合会の岸宏会長らに陳謝している。以下では,トリチウムを含む汚染処理水の海洋放出に関する合意形成の問題を考えてみたい。
 ここでまず留意すべき点であるが,川村会長発言は,必ずしも現行の規制基準を踏みにじったものではなかった。トリチウムと呼ばれる放射性物質は,水との親和性が強く水から分離することが難しい。
 アルブスなどの処理設備で汚染水からさまざまな放射性物質を取り除いても,処理水には最後までトリチウムが残ってしまう。しかし,毒性が非常に弱いトリチウムを含む汚染処理水の海洋放出基準は,他の放射性物質に比べるとはるかに緩やかである。
 事故前の福島第一原発では,トリチウム以外の放射性物質に対する規制基準は,たとえばセシウム134の場合,海洋放出が許される濃度が60ベクレル/リットルと厳格だったのに対して,トリチウムの場合は6万ベクレル/リットルであった。東電から公表されているプレスリリースをもとに概算すると,福島第一原発の地上タンクの汚染処理水に含まれるトリチウムの濃度は190万ベクレル/リットルなので,32倍まで希釈をすれば放出基準をクリアーできる。
 しかし,汚染処理水の海洋放出基準には,濃度規制とともに総量規制がある。同じく事故前の福島第一原発の年間放出上限を見ると,トリチウムを除くすべての放射性物質の合計が2200億ベクレルであったのに対して,トリチウムでは22兆ベクレルまで許容されていた。
 ここで問題となってくるのは,福島第一原発の地上タンクに含まれているトリチウムの総量が年間放出上限をはるかに超えているところである。仮に地上タンクの総貯蔵量を100万トンと見積もると,汚染処理水に含まれるトリチウムの総量は1900兆ベクレルに達する。現在の貯蔵水準の汚染処理水を海洋放出するには,12.3年の半減期を考慮しても何十年も要する計算となる。
 ここで再び「しかし」となってしまうのであるが,原子力関連の民間施設のトリチウムに対する総量規制において,1900兆ベクレルという水準が途方もなく高いレベルというわけではない。
 青森県の六ヶ所村にある使用済み核燃料再処理施設では,トリチウムの年間放出量上限が1京8千兆ベクレルと設定されている。要するに,1900兆ベクレルのトリチウムは,福島第一原発のような軽水炉施設にとって途方もなく高い水準であるが,民間再処理施設においては1年間の放出量上限の1割強なのである。
 それでは,川村会長発言のどこに問題があったのだろうか。東電と地元の人々の間の合意形成において,どのような観点が欠けていたのであろうか。東電や原子力規制委員会は,ここまでの文章でも3つの「しかし」を用いて説明せざるをえなかった複雑な事情を,当事者たちに誠意をもって語りかけたのであろうか。
 第1に,3つの原子炉で炉心溶融を起こした福島第一原発は,もはや通常の軽水炉施設でなくなっており,トリチウムを含む汚染処理水の海洋放出については再処理施設並みになったという認識が関係者の間で共有されていなかった。
 六ヶ所の施設を含む世界の再処理施設において地元の人々が合意している規制基準は,事故を起こした福島第一原発にあてはめることが決して不可能だとは思われない。トリチウムが毒性の低い放射性物質であるということが関係者だけでなく,国民の間でも十分に理解されれば,風評被害も回避できるであろう。
 深刻な事故に見舞われた福島第一原発の施設状態に関して人々が正確な認識を共有できるように,東電や原子力規制委員会が地道に努力してこなかったことにこそ本質的な問題がありそうである。
 第2に,トリチウムを含む汚染処理水の海洋放出がきわめて切迫した問題であるという点を,東電が誠実に説明してこなかった。東電は凍土壁によって原発施設への地下水流入をほぼ阻止できると主張するばかりであった。もし東電の主張をまともに受け入れれば,汚染処理水を海洋放出する逼迫度が低いことになる。
 確かに,東電が毎週発表している「福島第一原発発電所における高濃度の放射性物質をたまり水の貯蔵および処理の状況について」から計算される1日当たりの地下水流入量は,昨年の10月以降,それまで400トン/日を超えていたものが200トン/日まで低下した。ただし,東電は8月末に凍土壁の全面凍結に着手したが,現在のところ地下水流入量に大きな変化が認められない。
 過去1年間の地下水流入量の低下は,原発施設周辺の井戸による地下水のくみ上げの結果であって,凍土壁の効果は期待できないという専門家も少なくない。地上タンクの総貯蔵量は,8月初めにとうとう100万トンを超えて,原発施設内での地上タンク設置上限に近づきつつある。
 今後,地下水流入量が200トン/日で推移すると,年間7万トン以上増加する。凍土壁によって地下水流入を抑制する効果が必ずしも高くないことを東電が率直に認めることこそ,トリチウムを含む汚染処理水の海洋放出の逼迫度について国民の理解を促す契機となるであろう。

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