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関電黒部ダム、先人の苦闘とインフラ維持の努力を見る 石井孝明(経済・環境ジャーナリスト)2017.10.23

 今年10月初頭、エネルギー研究者グループと共に関西電力の招待で、富山県の黒部川水系の同社の施設、そして黒部第四発電所(通称黒四・クロヨン)と黒部ダムを見る機会を得た。峻険な山の中に電気を作るために、鉄道、ダム、発電所という巨大な設備があった。それを作った先人たち、そして今もなお、その維持のために努力を重ねる同社の人々に改めて敬意と感銘を抱いた。


(写真1)黒部ダム

■「たかが電気」…侮辱の前に電力の事実を知ろう

 東京電力福島第1原発事故の後で、原子力発電とそれを運営する電力会社を批判する声が広がった。音楽家の坂本龍一氏は2012年7月の反原発集会で「たかが電気のためになぜ命を危険に晒されなければいけないのでしょうか?」と、電力会社を批判した。

 私はこの言葉に、違和感を感じた。確かに電力会社や原子力の運営には批判される面も、また安全をないがしろにした面もあったかもしれない。しかし電気はスイッチを押せば出てくるものではない。それを発電し、送配電するためのインフラ、さらにそれを建設、維持する人々の努力が背景にある。そうした営みに敬意を持たず、「たかが電気」と侮蔑するのは、かかわる人々に大変失礼なことだろう。

 黒部の山中の巨大な設備と努力は、電力供給の背景にある大変な努力を私たちに教えてくれる。「たかが電気」と叫ぶ人たちは、ぜひその事実を知ってほしい。

 そして技術の進歩を感じた。黒部水系は開発に100年をかけた。現在12カ所の発電所、発電出力の合計で90万1000キロワット(kW)の電力を作り出せる。黒四と黒部ダムの建設では7年の時間と延べ1000万人の労働、さらに171人の殉職者があった。一方で原子力発電では、建屋一つ分で最新型では140万kWの発電能力を持つものが建設されている。原子力発電所で死者が出た事故例はチェルノブイリ事故など限られている。福島原発事故でも、放射線障害による死亡はない。

 1970年代に各電力会社がこぞって原発建設に動いた。水力発電は、黒部川渓谷のように、自然を大規模に変えなければならない。また無限に行えるわけではない。黒部川では治水も含めて、いくつもダムがあり、数十年も流れをせき止めているため、石が下流まで流れず川やダムの底にたまってしまった。まだ水は流れているが、いずれ問題になる可能性があるという。(写真2)そして火力発電は、化石燃料の燃焼による大気汚染の問題が起こる。原子力発電はさまざまな解決にしなければならない問題があるが、それでも水力よりも、発電のメリットは大きいように思えた。


(写真2)岩だらけの黒部川の河床

■今に残る難工事の後

 黒部川は、富山県の東部に位置する。水量が豊富で、高低差があることから、発電に適した場所として注目されてきた。黒部はアイヌ語グルベツ(魔の川)に由来するという説がある。ここは多雪地帯であり、洪水も多い治水の難しい川だった。それを100年かけて開発してきた。

 まず大正時代に開かれた富山県の宇奈月温泉に一泊した。そして翌朝に関電の子会社が運営し、流域の発電所への輸送、人の移動、さらに観光にも使われる黒部渓谷鉄道に乗った。長さ20.1kmの間にトンネル41カ所、橋が21カ所あり、終点の欅平(けやきだいら)まで1時間15分の行程で、昭和初期に開通したものだ。黒部渓谷は川周辺が関電の所有、そして大半が中部山岳国立公園内にあるために、人の手がほとんど入っていない。山の緑、空の青さ、清流の青や緑の色の織りなす光景は大変美しかった。年間約70万人がこの鉄道を利用する。(写真3)


(写真3)黒部渓谷鉄道と新山彦橋

 関電の前身である日本電力が大正年間から、運送用の道とこの鉄道をつくり、黒部川の開発を行った。写真は、日電歩道と呼ばれた開発用の道の建設の様子で、昭和14年(1939年)の写真だ。このようなところに鉄道を通した苦労を思った。


(写真4)道を作る工事の様子(関電ホームページより)

 欅平駅から竪坑エレベーターで200m上り、地下を通る関電の電動の小さな専用鉄道に乗り換えた。黒部第三発電所とその取水のための仙人谷ダム建設のため昭和14年に作られた全長6.5キロの輸送ルートだ。工事中約500mにわたり、地下の火山帯の影響で岩盤温度が最高で160度を超える高熱地帯があった。今でもこの列車内で、突然気温が40度近くに上がる場所があった。

 工事と事故の状況は、吉村昭の小説『高熱隧道』に描かれている。昭和13年8月に高熱でダイナマイトが発火、爆発して、8人が亡くなる事故があった。事故前は灼熱の中を穴掘りの人がホースで水をかぶりながら、坑道爆破の爆薬を詰めていったという。事故の後は特殊な容器を入れた遠隔操作に変わった。また同年12月には爆風を伴う巨大な雪崩が発生して宿泊施設が吹き飛ばされ、死者84名になる大災害があった。

 当時は日中戦争の最中で軍需生産のために電気が必要で、こうした無理な工事を重ねた。黒部第三発電所は昭和15年11月に完工した。

■昭和の高度成長の代表的工事、クロヨン

 そこから黒部第四発電所についた。発電所は地下式で、黒部ダムから落差545mの水路を経て4台の水車に水が送られてくる。4台の総出力は最大33万5千kW、1号機の発電開始は1961年(昭和36年)で、3号機までの完成は1963年だった。(写真5)(写真6)


(写真5)4つの発電機の上部


(写真6)直径3.3m、12トンの水車

 当時は毎年10%前後のGDP(国内総生産)の成長の続く高度経済成長時代だった。しかし、経済の成長を電力不足が妨げかねなかった。関電は当時の社長太田垣士郎氏の主導で、黒四とダムの工事は、総額513億円、当時の同社資本金の5倍である。64年当時で、関電の発電能力は520万キロワット(現在は3657万キロワット)だった。黒四の存在は大きく、さらにダムの完成で、黒部川水系の他のダムの水量調整もしやすくなった。昭和30年ごろは工場や家庭の計画停電が関西ではあったが、この完成によって電力不足は解消に向かった。

 黒四では発電所・変電所などの主要施設が地下150mにつくられている。ここが国立公園内にあること、そして豪雪地帯であるためで、地下都市のようだった。ただし昭和30年代の建物で古さを感じた。

 そこから標高1325mの地点と発電所(標高869m)を接続するインクライン(傾斜面を上下する装置)に乗った。傾斜角度34度、斜距離815mを20分かけて上下する。設備をダムや発電所に輸送するために作られた。さらにそこから地下通路を10km通ってダムに到着した。


(写真7)インクラインを下から見た光景

 黒四ダムは谷をふさぐように立てられ、高さは186m、堤の延長は492mと巨大だ。今でも日本一の大きさだ。美しいアーチ型を描く白い堰堤は、黒部湖のエメラルドグリーンと見事なコントラストを見せていた。ダムと発電所は10キロ離れており、そのために落差を545mと大きくできた。

黒部ダムの総貯水量は約2億立方メートル。石油輸送に使われる大型タンカー(20万トン以上の油を積めるもの)考えると、その1000隻分になる。しかし発電にめいっぱい使うと30日程度でなくなってしまうそうだ。

 帰りは、長野県の大町へ抜ける6.1kmの地下トンネルを通った。日本で唯一残る上に電車のようなパンタグラフを付け、その電気で動くトロリーバスだ。しかし2018年には電気バスに変わってしまう。このトンネル工事で「破砕帯」と呼ばれる出水を伴う特別な岩盤にぶつかった。これは石原裕次郎、三船敏郎主演の映画『黒部の太陽』(1968年)のテーマになった工事だ。長野側のトンネル、富山側の鉄道とトンネルによって、ダム工事現場への資材搬入は可能になった。

 黒部ダム関係の工事で亡くなった方は171人になる。ダムには巨大な慰霊像が立ち、慰霊が続いていた。「黒部は大きな水力エネルギーを生み出しており、関西の電力の安定供給に重要な場所です。私たちは先人達の努力を胸にここを守っていきます」と関電の案内の方が語った。


(写真8)黒部開発の殉職者慰霊碑「尊きみはしらに捧ぐ」と書かれている

 険しい峡谷の巨大な設備を見て、「ここから多くの電気を送ることができる」と考えた関西電力の人々の構想力、「電源開発を成功させる」と峡谷に道を通す努力を続けた先人たち、そのダムと地下設備の巨大な構造物をつくった人間の力と日本の建設会社の土木技術に、ただただ敬意と感銘を抱いた。

 日本ではスイッチを入れれば電気は安い対価を出して自由に使える。しかしその背景には、多くの人のインフラ維持の努力があることは忘れがちだ。この記事をきっかけに、電力やエネルギーの裏に思いを寄せていただけると幸いだ。

(写真4は関電、8はWikipedia、他は筆者撮影)

(追記)私の見たルートは、関電に申し込めば抽選で見せてもらえる。(関電サイト)

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