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なぜ福島第二原発は津波から守られたのか 石井孝明(経済・環境ジャーナリスト)2018.4.2

 震災から7年が経過して東京電力福島第一原発事故を冷静に見つめる冷静な環境ができつつある。そして、この原発から直線距離で12キロしか離れていない、同社の福島第二原発も危機に直面したが、過酷事故は避けられた。知られざる人々の奮闘を紹介したい。

 守られた理由は、福島第一との状況の違い、東電社員の努力、そして第二原発所長だった増田尚宏氏のリーダーシップと指揮にあると、筆者は考えている。


写真1)福島第二原発を襲った津波

◇残った電源がプラントを救う

 「全電源を失った福島第一と状況が違い、電源が残った。その点で運が良かった」
 第二原発の当時の所長、増田尚宏氏(現東京電力ホールディングス常務執行役))は事故を免れた理由を振り返った。

 第一原発では、津波で非常用電源設備が壊れ、地震で外部電源も切れ全電源が喪失した。そして冷却不能になって原子炉が加熱し、核燃料が破損した。
  
 第二原発でも似た状況に陥った。震災時点で4つの原子炉すべてが稼働していたが津波が襲った。事前に想定した津波の高さは5メートル前後。ところが、最高9メートルに達し、防波堤を壊して乗り越えた。「津波の恐ろしさを深刻に認識し、事前にもっとすべきでした」と、増田氏は悔やむ。

 第二原発は、4系統あった外部電源のうち1つが地震でも残った。さらに中央制御室が使え、監視と操作が行えた。4つのプラントには外部電源に加え、3台ずつ非常用発電機が備えられていた。1、2号機では地形の関係で水没個所が多く、それらがすべて壊れた。3号機は2つ、4号機は1つ残り、冷却は可能だった。

 そして増田氏は的確な臨機の指示を出した。直線距離で800メートル離れて残った外部電源から海辺の原子炉の建屋まで、約200人もの社員と関連会社の社員の人力でケーブルを担ぎつなげた。ケーブルは太さ5センチほどで大変重い。建物を迂回(うかい)したり、上下があったりして、総延長は9キロメートルにもなった。通常なら機械を使って1カ月かかる作業を、13日深夜まで30時間で成し遂げた。その電力を使って注水し冷却ができた。

 1号機は加熱して圧力が高まっており、あと数時間遅れれば原子炉内にたまった蒸気を外部に放出する「ベント」を決断せねばならないほど、切羽詰まった状況だった。

 福島第二原発が過酷事故を免れた理由は、電源が残った幸運が影響したかもしれない。しかし、それは理由の一部にすぎない。状況をより強く安全に結びつけた、責任者の的確な判断と人々の頑張りがあったのだ。

 昨年10月、第二原発を訪ねると、海辺の冷却装置の置かれた建物内に水の跡があった。鉄扉が壊されて水が流れ込んだという。さらに波は敷地をさかのぼり、海面から15メートルのところまで一部浸水した。目の前にある海は穏やかで、荒れ狂う津波の巨大なエネルギーを想像するのは難しかった。

 私は昨年、第二原発を取材し、緊急時対策室のあった免震重要棟に入った。震災直後、地上3階建てのこの場所に約400人の社員が半月寝泊まりした。その人数が半月暮らすにはとても狭い場所だ。

 余震と津波警報が続き、第一原発の事故で放射線量が上昇するなかで、作業を続けた社員たちの姿を想像した。恐怖を当然感じただろうが、それを乗り越えて、プラントの安全確保のために働いた。「第二原発で事故を起こしてはいけないという思いで、社員はまとまった」(増田氏)

 震災後3月いっぱいは、残った社員の食事はクラッカー、缶詰、マジックライス(=一度炊いたご飯を乾燥させた保存食)といった非常食のみだったという。

 誰もが、野菜不足で吹き出物などに悩まされた。4月上旬にようやく、いわき市内の商工会、総菜店などが協力して、お弁当をつくってくれるようになった。増田氏と東電社員にとって、非常食がお弁当に変わった小さな変化は、大変な感動をもたらしたという。さらに、しばらくたつと「頑張れ東電」と、小さなシールが弁当箱に貼られるようになった。

 「『福島に申し訳ない』という思いを持ちながら、ずっと気持ちが張り詰めていました。このシールを見たとき、『福島の人が応援してくれた』と涙が出そうになりました」(増田氏)と振り返る。東電社員の努力が過酷事故に陥ることを止めたのだ。

◇人々を動かした増田所長のリーダーシップ
 
 第二では事故直後、約400人もの東電社員が残り、被害を食い止める適切な作業をした。人々の力を引き出した一因は、当時の増田尚宏所長(現・東京電力ホールディングス常務執行役)の適切なリーダーシップがあったためと評価できる。


(写真2)増田尚宏(現・東京電力ホールディングス常務執行役)

 震災直後、増田氏は第二原発にいた社員に「残ってほしい」と要請した。「苦しいお願いでした。社員は震災の被災者でもあるのです。しかし、『一度帰り始めると人がいなくなり、危機に対応できなくなるかもしれない』と思いました」と、増田氏は振り返る。

 その後に分かったが、第二で働く社員5人の親族8人が亡くなり、津波などで二十数人の家が損傷を受けていた。

 だが、全社員が要請に応えて残った。プラントの安全がほぼ確保され、増田氏が「そろそろ、家庭を優先してくれ」と社員に言ったのは3月23日のことだ。社員らは、それから4、5日後に、やっと帰り始めた。

 増田氏は「残れ」とだけ、命じたわけではない。震災当日、地震対策をした免震重要棟に社員が集まった。そこで、「安全第一で仕事をしてもらうことを約束し、プラント維持にみんなの力が必要であること、私の持つすべての情報を話しました」という。その後、毎日朝夕2回、現状を社員に話し続けた。

 増田氏本人は、緊急時対策室を離れず、震災直後100時間は寝ずに指揮した。当時のことは今でもほとんど覚えているほど覚醒していた。恐怖感を感じたことはなく、ずっと冷静だったという。

 「原子炉の管理では、炉を『止める』『冷やす』、放射性物質を『閉じ込める』と基本行動は決まり、必要な対策は導き出せます。目の前の現象に集中し、動揺することはありませんでした」。

 増田氏は翌年夏まで原発の所長室に泊まり続けた。そして、判断と情報をすべて引き受けた。

 米ハーバード・ビジネススクールは、福島第二原発の震災への対応について分析を行った(『ハーバード・ビジネス・レビュー』14年7−8月号)。そこで、増田氏のリーダーシップを評価し、「センスメーキング(=意味付け・納得)が良い結果をもたらした」と評価している。

 組織の人々に現状を示し、誠意を持って語りかけることで、自分の行動の意味を知ってもらい、自発的な行動を促すマネジメントの方法だ。増田氏はその言葉を知らなかったが、自然とそのような行動を取っていた。

 「自分がすごいことをしたとは思えません。社員の頑張りのおかげです」

 増田氏はこう語るが、彼の言行が状況を変えた。リーダーシップの手本として、増田氏の姿は知られるべきだと思う。

◇安全性を向上させ続ける東電の変化

 そして増田氏は今、東京電力ホールディングスの常務執行役で、福島第一廃炉推進カンパニーのプレジデント(最高責任者)だ。

 「原発の安全で想定外は許されない。昨日よりも今日、今日よりも明日、より安全にするよう日々改善を進める。安全追求に終わりはない。私も社員も、以前にもましてそう意識するようになりました。」

 「原発の廃炉のために、毎日少しずつでも安全のための改善を、会社全体で続けています。私たちの目標は『福島の復興』です。住民の皆さんの不安が少しでも減るように、正確な情報を速やかに発信しています。」

 増田氏の言葉だけの現象ではない。筆者は福島原発事故の東電を知るが、東電の雰囲気は確かに変わった。まじめさ一辺倒の会社だったが、風通しがよくなり、さまざまな立場で意見が表明され、どの社員も福島復興のために努力を重ねている。

 原子力発電をどうするか。東電が原子力を扱う資格があるのか-。これが日本のエネルギーの未来を考えるうえで、重要な問題になっている。

 さまざまな意見があるだろう。しかし、この問題を考えるとき、第二原発が巨大災害を東電社員の努力で乗り越えたこと、その経験を教訓にして、東電がより安全な原子力の管理、福島の復興のために努力を重ねていることは、知られるべきではないだろうか。

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